第8話



 周囲の水晶の部屋が、ミシミシと音を立てる。皆、ぎょっとした。
「なに、崩れるの?」
 レディアンはおろおろした。クレセリアは、息を吐いた。
「大丈夫、まだこの場所は持ちこたえています。私の意志力が完全に尽きたとき、この世界は崩壊を迎えますが、まだ、大丈夫――」
「大丈夫じゃないよ!」
 カポエラーは、クレセリアに言った。
「一人ぼっちでこんな世界にいることないよ! 一人ぼっちの世界にずっとい続ければ、誰だって疲れるよ。ねえ、渓谷へ行こうよ。そうすれば友達だって出来るよ。寂しくなんかなくなるよ!」
「私はこの世界を離れられません――」
 水晶の壁の一つに大きな亀裂が入る。プクリンは思わず悲鳴を上げた。
「いけない――」
 クレセリアが天井を仰ぐ。天井にも亀裂が入っていき、パラパラとちいさな水晶のかけらが落ち始めた。
 亀裂の大きさを見て、レディアンは、とっさにリフレクターを放つ。皆の頭上を覆ってしまえるほど大きなリフレクターが出現した直後、水晶の天井が一部落下し、巨大なリフレクターの上でバリンと砕けた。
「ヤバいんじゃないか?」
 冷や汗をかいたレディアン。プクリンは頷いた。クレセリアの話が本当ならば、クレセリアの意志力が失われつつある今、この水晶の世界も崩壊を迎えようとしているのだろう。
 クレセリアは、疲れている。
 誰の目にも、それは明らかだ。今まで何とか持ちこたえてきたこの水晶の世界が、クレセリアの意志ひとつで、あっけなく崩壊してしまう。そうなると、ポケモン渓谷へ戻る方法も失われてしまうかもしれない。下手をすれば、この世界ごと、皆、消え去ってしまうかもしれない。
 割れた天井の穴から、更に高いところから、水晶の大きな塊が落下して、リフレクターの上で砕けた。レディアンはぶるっと身震いし、水晶の衝撃で粉々に砕けてしまったリフレクターを新しく呼び出す。
 一部に穴の開いた天井から、細かな水晶のかけらだけでなく、いくつかの水晶が塊の状態で落ちてくる。天井が落下しそうなほど、巨大な亀裂が走っているが、辛うじて天井が崩れずに済んでいる。クレセリアが何とか持ちこたえさせているのだろう。それでも、ヒビの進行速度と大きさから判断して、そう長い事亀裂をとめることはできないかもしれない。疲れきったクレセリアの意志力が尽きるのが先だろう。この場所が完全に崩壊するのも、もはや時間の問題だ。
 早くこの場所を脱出しなければならない。
「ねえ!」
 カポエラーはクレセリアの腕を引っ張る。
「どうやったらこの世界の外へ出られるの?」
「あの赤い水晶……」
 クレセリアの声には、どこかあきらめがあった。
「あの水晶のかけらでもあれば、私の今の力なら、あなたたちを外へ出す事もできます。でも、ここには門の力を持つ水晶など、ありません――」
 チン。
「あれ?」
 プクリンが声を上げる。くりっとした前髪から何かが落ちたのだ。
 拾ってみると、それは、赤く光る水晶のかけらだった。あの谷底で休憩しているとき、寝そべっていたプクリンは岩の上をころころ寝転がっていた。その時にでも、岩に張り付いていた小さなかけらが前髪の中に紛れ込んだのだろう。
 爪先ほどの小さなかけら。
「それだけでもあれば、あなたたちは、外へ出られます」
「じゃあ、僕らが出た後は――」
「おそらく、あなたたちを外へ出した後、私の力はそこで尽きるでしょうね……。この水晶の世界は滅び、おそらく私自身も――」
「そんな!」
「でも、もういいの。話し相手がいてくれたらもっとこの世界を維持できたかもしれないと思っていたけれど、事態はそれ以上に進んでしまっていた……。この世界は、もう維持すらできません」
 プクリンの手から、緋色の水晶のかけらが離れ、クレセリアの元へ漂う。
 周囲の水晶の壁に大きな亀裂が入り、細かい水晶のかけらが割れ目からパラパラと落ち始める。クレセリアは疲れている。カポエラーたちを外に飛ばすことが出来るかどうかも、危うく見える。
「私があなたたちを引き止めておく理由は、もうなくなりました。あなたたちには、随分迷惑をかけてしまいましたね。わがままを言ってごめんなさい……」
 緋色の光が、強くなる。床にまで亀裂が入り、でこぼこになる。バランスをくずしたプクリンが転び、飛んでいるレディアンは慌ててプクリンを引っ張り上げる。
「私の最後の力を振り絞ります。そうすれば、あなたたちは、渓谷へ出られる……」
 皆の体が、緋色の光に包まれる。クレセリアは最後の力を振り絞って、皆を外へ出そうとしているのだ。
「さあ、行きなさい。私のことは、もう忘れて――」
 光に包まれた体が消えていく。
 だが、
「待って!」
 完全に消える寸前、カポエラーはクレセリアの腕をつかんだ。

 無数の亀裂が走った部屋の中から、皆が消えた。

 熱。
 感じたのはそれだけだった。
 体中が焼かれるようなすさまじい熱さを感じ、その熱さは急激に引いていった。
 頬を撫でる風。
 カポエラーは目を開けた。眩しい光が目に飛び込み、すぐ目を閉じる。やがて、目が光に慣れてきたので、目を開ける。
 うつ伏せになっていた。周囲の景色の焦点が合い始める。草。木。茂み。岩。カゴの木の独特のにおい。
 起き上がる。どこかの森の中に横たわっているようだ。だが、どこなのかわからない。見たことのない森だ。ポケモン渓谷の森なのか、それとも全く違う場所の森なのか、それすらも不明だ。
 少し離れた所で、レディアンとプクリンが草の上に横たわっているのが見える。やがて、両者は同時に意識を取り戻した。身を起こし、周りを見る。
 カポエラーの姿を見つけ、互いの無事を喜んだものの、
「ここどこ?」
 不安そうな声のプクリン。レディアンは、羽の調子を確かめると、空に向かって飛んでいった。上空からの景色を見て、この場所が何処なのかを調べるつもりらしい。
 やがて、レディアンは降りてきた。
「何かわかった? ここはどこ?」
 カポエラーの質問に、レディアンは首を振った。
「わかんないよ。渓谷の森とは少し違うみたいなんだ。森の奥の滝だってないし、崖も見つからない。あの水晶の世界から出られたってことしか、わかんない」
「水晶――」
 そこで、クレセリアのことを思い出す。
「そういえば」
 カポエラーは、自分の倒れていた場所まで戻る。水晶の世界からこの場所へ送られる直前、クレセリアの腕をつかんだのは覚えている。
 クレセリアの姿は、なかった。この場所へ送られる途中で手を放してしまったのだろうか。それとも、クレセリアの腕をつかんだというのは自分の思い違いで、実は水晶の一部を握り締めてしまったのかもしれない。
 クレセリアがいないというカポエラーの言葉に、プクリンは耳を動かす。クレセリアの声を聞き取った唯一のポケモンなのだから、何かクレセリアが言葉を発すれば聞き取れる。だが、プクリンの耳には、何の言葉も入ってこない。
「どこへ行っちゃったんだろう? 腕をつかんだはずなんだけど」
 カポエラーは周りを見る。しかし、見渡す限り、クレセリアの姿はない。
「送ってもらう途中で、はぐれたとかじゃないの?」
 レディアンは無造作に言い、また高く飛んだ。今度はすぐには降りてこなかった。半時ほどして、ようやっと降りてきたが、その腕にはベリブの実を抱えられるだけ抱えていた。
「ちょっと腹ごしらえしようよ。美味しそうだったから、ちょっと枝からとってきた。太陽の昇り具合から言っても、もう昼時だしね」
 ほどよく熟した木の実を腹いっぱい詰め込む。渓谷で食べるベリブの実と、味はほぼ同じだった。
「結局、ここはどこなんだろうね」
 食べ終わった後、プクリンは草の上に寝転んだ。なぜか、疲れていた。
「さあねえ」
 レディアンは木の枝に止まる。それから、また羽を広げた。
「もう少し周りを見てくるよ」
 飛んでいった。
 木漏れ日が、やさしく草地を照らす。どこからか微風も吹いてくる。カポエラーもプクリンも眠くなってきた。腹いっぱいの木の実がこなれていく。
 いつのまにか、レディアンの帰りも待たずに、目を閉じていた。

 突如体に走る衝撃で、カポエラーもプクリンも飛び起きた。
「あ、起きたの」
 側に、レディアンがいた。
「全然起きないからさー、連続パンチでぽかぽか叩いてみたんだけど」
「なんだ……びっくりした〜。って、叩く事ないじゃないの!」
 プクリンがふくれっつらをするが、レディアンは気にもかけない。
「びっくりしたのはこっちだよ。知らせなくちゃならないことがあるから急いで戻ってみれば、ぐうすか昼寝してるんだから!」
「ごめんごめん。で、知らせたい事ってなあに?」
「実は――」

 カポエラーたちが、森の外れにある小川についたのが、それから十分ほど後のこと。
 小川は流れの緩やかなところで、幅はだいたい二メートルほど。あまり深くはなさそうだ。
「あ、あそこだよ!」
 レディアンの案内で、扇状に広がる川下へ走った皆が見つけたのは、川岸に倒れたクレセリアだった。


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