第2話
建物の掃除が終わったのは一時間ほど後の事。キルリアはくたびれてしまった。それでも彼女の懸命な掃除の甲斐あって、見違えるほど綺麗になった。綺麗にほうきで掃除され水拭きされた床にはほこり一つ落ちておらず、綺麗にぬぐわれた窓からは日光が差し込み、室内をある程度明るくする。室内の家具はロッカーと机と椅子だけだったが、それらもほこりをぬぐわれ、綺麗になった。コジョンドの食べ散らかしたものもきれいに片づけられ、ゴミは皆ゴミ袋に入った。
「いやー、ありがとうね! 掃除までしてもらって。おかげでぴかぴかだわ!」
コジョンドは嬉しそうに言った。
「いぇ……」
キルリアはハンカチで汗を拭いた。
「それじゃあ、レッスンを始めましょうか」
どこからかコジョンドは小さなラジオを取りだした。曲を流す専用の機器のかわりに、どこの電気屋にでも売られている安物の小型ラジオとは……。キルリアが呆れて見ていると、コジョンドは電池式ラジオのスイッチを入れ、アンテナをのばす。ちょうどラジオ番組で音楽が流れているチャンネルがあるようで、そのうちラジオから今はやりのロックが流れてきた。コジョンドは音量を調節し、もう少し音量を上げる。
「あなたのリズム感とか、そういうのを見たいから、とりあえずデタラメに体を動かしてちょうだいな」
「で、でたらめって? どうするんです?」
「別にアイドルのダンスの真似とかそんなのしなくていいから、音楽に合わせて体を動かしてくれればいいの」
ああ、そういうことか。キルリアは、ラジオから流れてくるロックに合わせ、体を動かし始めた。いつも通りに。それを、コジョンドは見ている。
不意に、コジョンドはラジオのスイッチを切った。音楽がいきなり止んだ。キルリアは体を動かすのを止めた。
「うーん」
コジョンドは悩んだ様子であったが、
「確かに、貴方、ダンサーとしての才能は、まるっきりないわ!」
何度もダンススクールの入会試験で言われてきた言葉だが、こんなおんぼろダンススクールの講師にまで言われてしまうとは。
「リズム感がないし、一本調子の動きだし、学校の体育のダンスでもこんなこと言われたんじゃなくて?」
「はあ、確かに……」
思えばラルトス時代にそんな事を言われた。彼女だけが、音楽のリズムに乗れておらず、的外れな踊り方をしていると言うのだ。
「貴方にはダンサーとしての才能はまるでない! でも貴方は踊りたいのよね」
「はい。ステージに立つようなダンサーになれなくったって、踊ること自体は出来ますから」
「なるほどねえ。まあ、貴女がリズム音痴でも踊り自体は教えられるけどね。で、貴方はどんな踊りを踊りたいの?」
「えっ」
「踊りって言っても色々あるでしょう? 古風なものから今っぽいものまでいろいろあるんだけどね、貴方は何を踊りたいの? 社交ダンス? ブレイクダンス? 阿波踊り? バレエ?」
キルリアは言葉に詰まった。踊りたいと言う気持ちは強かったが、何を踊りたいのかについては何も考えていなかったからだった。
「あら、何も考えてなかった、の?」
「はい。とにかく踊りたくて……」
キルリアの全身が真っ赤になった。コジョンドはしばらくキルリアを見つめ、首を振りながら言った。
「じゃ、思い切って、学校時代に戻ってみない?」
「学校時代?」
「創作ダンスよ。ほら、あるテーマにそって自分たちで動きを作って実演する、ってやつ。線香花火とか、あるでしょう?」
「あー」
思い出した。音楽はないがテーマはあり、それに沿ってダンスを作って披露するのだ。
「あれなら出来そうです!」
「そう。それなら、今日は宿題を出すわね。わたしがテーマをあげるから、それに沿った動きを考えて、スケッチブックにでも描いてきて。明日、その動きを見せてもらうから」
「はい!」
「じゃあ決まりね。テーマは……花の一生。種から発芽、成長と開花、そして実をつけて枯れるまでが花の一生よ」
「はーい」
「それじゃあ、今回のレッスンはここまでね。次回はいつにしましょうか」
「じゃあ、明日お願いします。明日は休日だから」
「そうねえ。じゃあ、明日のお昼の一時からにしましょう。こっちも準備があるから」
「はい。今日はありがとうございました」
「こちらこそ、お疲れ様。明日のお弁当楽しみにしているわねー」
出口で、キルリアはずっこけた。
夕日がビルの向こうへ沈むころ、キルリアは自宅に帰りついた。両親は共働きなので、もう少ししないと帰ってこない。いつもの事だけれど……。ダンススクールに入ろうと思ったのも、両親のいない間の暇つぶしと寂しさを紛らわすためであった。
キルリアはスキップしながら自室へ入り、ラルトス時代に工作の授業で使っていた使いかけのスケッチブックを取りだした。下手な花の絵が描いてあるページをやぶいて捨てると、スケッチブックの表紙に「ダンス用」と大きくサインペンで書きしるした。
部屋が暗くなるまでキルリアはスケッチブックにあれこれ描いては消しての繰り返しを行い、知らぬうちに帰宅した両親から夕飯だと告げられるまで、ずっとダンスの宿題に取り組んでいた。夕飯中、ずっと両親にダンススクールでの宿題の話を絶え間なく話しつづけたくらいだ。両親は、彼らの帰宅まで暇を持て余す娘の暇つぶしのために何か習い事をさせようかと考えていた事もあり、娘がダンススクールの話をするのを、にこにこしながら聞いていた。今まで、娘はどのダンススクールからも門前払いされていた。だがやっと娘は入会出来たのだ。親として嬉しくないはずがない。
「ダンス・コジョンド……。確か、昔ママの友達がそこに通っていた事があったわね」
「ママのおともだちが?」
「ええ。いい先生なんだけどちょっと時代遅れなところがあるって、結局友達はそこを辞めてしまったわねえ。あのダンススクールは今もやっているのね」
「そうなんだー」
夕食後、夜中過ぎまで、キルリアはダンスの振り付けを考えつづけていた。
日曜日の朝は、早朝から雲ひとつない青空が広がった。
「わーい、いいお天気! 絶好のダンス日和!」
昼ごろ、昼食を済ませたキルリアは、せっせと弁当を作っていた。たくさんお握りを作り、ラップにつつむ。昨夜の残り物を冷蔵庫から取り出し、見栄えがいいように弁当箱に詰め、水筒に緑茶を淹れた。そして、大きなカバンに弁当箱と緑茶入りの水筒をつっこみ、スケッチブックも入れる。
「いってきまーす!」
キルリアはスキップしながら家を出た。ダンススクールへ行く途中、ベーカリーに寄って食パンを一斤買う。コジョンドが大食漢でなければ、今日の夕飯代わりにでもしてもらおうと思ったのだ。
町の端っこにある「ダンス・コジョンド」は、まだドアが開いていない。キルリアはドアをノックして、
「こんにちはー」
ドアを開けた。
「はあーい」
中からコジョンドの声が聞こえてきて、他にも何やら物音がする。がさごそと何かを探しているような物音だ。
「あらいらっしゃい」
コジョンドは、中に入ってきたキルリアを見た。そして、彼女の持っている大きなカバンを見て、目を輝かす。
「あらありがとう! お弁当持ってきてくれたのね! 公園の水道水じゃあすぐおなかすいちゃって」
「はあ、よかったら、どうぞ」
キルリアの差し出す大きなカバンの中から弁当箱と水筒を見つけ、コジョンドは礼を言って、遅い昼食に取り掛かった。十以上も握ったおにぎりと弁当箱の中身があっというまにコジョンドの胃袋へ、緑茶と一緒に消えていく。キルリアはそれを呆れと驚きの目で見つめていた。
「ぷふう。あー、おなかいっぱい。ほんとうにありがとね」
コジョンドは空っぽの弁当箱と空っぽの水筒を大きなカバンにしまい、改めてキルリアに礼を言った。
「いえいえ」
キルリアは相変わらず目をまん丸にしたままであった。コジョンドは椅子から立ち上がり、隅っこへまた移動する。そして、大きな箱を引きずってきた。
「午前中はこの準備をしていたのよね。久しぶりにこれを出したわあ」
箱の中身は、ダンスで使う小道具が色々入っている。飾りの造花やレース、つくりものの翼もある。
「まあ、これもちゃんとほこりをとったり洗ったりする必要があるんだけどね。……これがいいわ」
コジョンドが取りだしたのは、赤いバラの造花。
「まあ、使えそうなのはこれしかないから、仕方ないわね」
ぱっぱとほこりを払ってから、キルリアの頭にその造花を乗せる。コジョンドは、椅子に座り、渡されたスケッチブックを開く。
「ふむふむ。こういう動きを考えてきたのね。じゃあ、今度は、貴女がそれを実演して頂戴な」
「はい」
そう言われると思って、昨夜、練習したのだ。キルリアはドキドキしながら、ぎこちなく体を動かし始めた。体を丸めたり伸ばしたりして、種から発芽までを表す。次に思いっきり背を伸ばして成長を表す。丸めた体をぱっと広げて開花を表す。そのまましばらくとどまってから、やがてしわしわと体をくねらせ、枯れていくさまを表し、最後に、体を小さく丸めて、種が地面に落ちるさまを表した。
全てが終わると、コジョンドはぱちぱちと拍手した。
「うーん、貴女、こっちの才能があるわね! なかなか上手よ。でも、とっても固いわ!」
喜んでいいのか悪いのか分からないコメントをもらってしまった。
「あ、ありがとうございます……でも、固いって?」
「まず貴女には柔軟体操が必要なの! 動きを見ていてわかったけれど、リズム音痴なだけじゃなくて、貴女の体はとても固いのよ! 緊張で固くなっているのとは別の固さだわ!」
それなら昨日の時点で言ってくれれば……。
「じゃあ、さっそく柔軟体操を始めましょう! 体が柔らかくなれば、とても優雅な動きも出来るのよ。こんな風に」
言うなりコジョンドはくにゃっと曲がり、反り返って、きれいなブリッジを見せた。キルリアも真似しようと反り返ったが、頭を打っただけに終わった。
「充分柔らかくなれば、ブリッジ楽にできるわよ。だから、やりましょう!」
「はぁい」
別にブリッジをしたいわけではないのだが、コジョンドに押し切られ、キルリアは柔軟体操を始めたのだった。
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